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カンボジアのボジ子。

カンボジアで2年の仕事を終えて一時帰国中。シェムリアップの美味しいレストラン、手作りごはん・お菓子、たまに観光・旅行ネタ、ダイエット、コスメなど広く浅~~く。

3.11から丸4年が経ちました。

(トピック「被災」について)

 

あの日私は、大学1年生。14時から遅番でバイトに行っておりました。

社内報で「関東の店舗が壊滅的な被害を受けた」と聞いても

さっぱり意味が分からず、実感も持てず、

次から次へやってくるお客さんを捌くので精一杯でした。

 

夕方ごろから「あれ、何かおかしいな」と思い出したのは、

いつもそんなに売れないものが売り場から次々姿を消したからでした。

 

水や、常備薬、日用品、生理用品、健康食品をはじめ、

絵に描いたような「大量買い」を目の当たりにしました。

店舗が狭くベビー用品や介護用おむつは取り扱いが殆ど無かったので、

何故在庫が無いのかと何度も何度も問い合わせを受けました。

 

そしてバイトが終わり、なか卯で親子丼を食べていました。

ワンセグを繋いで、そこで初めて、事の大きさを知りました。

どのチャンネルを見てもけたたましく鳴り響く余震のアラームを聴いて、

頭が真っ白になりました。

 

家に帰って、使っていなかった大き目のリュックを取り出しました。

シーチキン、カロリーメイト、ゴミ袋、9V電池、アルミたわし、

水、カイロ、ウェットティッシュ・・・

家の中にあるものを手当たり次第詰め込みました。

「ここらで大きい地震があったら、セブンイレブンに集合な。」と

実家を離れて住む皆で約束し合い、

バイクを出来るだけ壁側に寄せてセンタースタンドを立てました。

 

翌日またバイトに行ったら、すっからかんになっている棚がいくつかありました。

点数制限をつけて大量買いを防止しようとしても、

「レジ並びなおしたんやからええやろ」と何度も何度も怒鳴られました。

 

家に帰って、次の地震に備えるためTVをつけっぱなしにしていましたが、

よくわからないCMが頭の中をループし続けるので、そっと電源を落としました。

 

これが私の、2011年の3月11日。

 

 

どんどん増えていく犠牲者の数に恐怖を覚えながら、ふと、

阪神大震災の日のことを思い出しました。

あの年、私はまだ4歳でした。

滋賀は震度3だか4だか、そんなに大きくはなかったのですが、

あの地震だけは何故か鮮明に覚えています。

山鳴りが酷く、両親が飛び起きて、見たことないぐらい動揺していたので、

それが印象に残っているんだと思います。

翌朝、大きな街が燃えているのがニュースで流れていて、

いつもは私が起きていったらチャンネルを変えてくれる祖母が、

その日はニュースのまま、変えてくれなかった。

黒いテレビ台の上に乗った、大き目のブラウン管テレビをぼーっと見つめて

「この燃えてる中に、まだ人がやあるんやで」と言った祖母。

それがずっと頭に焼き付いています。

 

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あれから2年が経った3月11日、私は仙台と松島を訪れました。

東松島の野蒜地区は沿岸全域が壊滅的な被害を受けており、

松島からバスで移動して駅にたどり着いた時に見た光景は

言葉になりませんでした。

駅の前のコンビニと、その山手に家が数件、

そして海の近くの中学校だけが残っており、

その日の朝にゲストハウスで見た震災前の航空写真からは

想像も出来ないほどの被害を受けていました。

「ここが自分の町だったら」と考えたら、背筋が凍りました。

人が本当に住んでいたのかも疑ってしまうほどでしたが、

足元をよく見ると、曲がったスプーンや欠けたお茶碗があったり、

家があったと思われる場所に花が供えられていたり。

確かに人がこの場所に人の暮らしがあったんだということが、

ようやく分かりました。

「2年前の今日もこんなに風が強い日だったのだろうか」と、ふと考えました。

こんなに寒い中、あの真っ黒な津波と共に海に流され、

ある方はそのまま沖のほうへ、ある方は奇跡的に残った建物で孤立し、

避難所に逃れた方も絶望や不安と戦わなければならなかったし、

あるいは今も、これからもその気持ちを持ち続けなければならないのかと。

 

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黙祷のサイレンが鳴り響いた時は、日本三景に数えられる松島に居りました。

海に向かって手を合わせる人々を見て、私もそれに倣いました。

その後食べた焼きたての笹蒲鉾や牛タン、

おしゃれなカフェのカステラはとても美味しかったけれど、

人はまばらで、観光地の活気はありませんでした。

 

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行きも帰りも青春18切符で、遅延も含めて合計30時間の旅になりました。

帰りの電車のことはあまり覚えていません。

単純に疲れていたのもあるけれど、おそらく、理由はそうじゃない。

 

大阪に戻ってから、石井光太著「遺体―震災、津波の果てに」を読みました。

 

3.11直後からの、遺体捜索や安置、遺族との面会、火葬・土葬などについて

多角的に、大変リアルに書かれた一冊です。

映画は見たけどこちらは未だ、という方はぜひ手に取っていただきたい一冊です。

 

今も被災地で支援を続ける幡ヶ谷再生大学のDVDが出たようで、

ぜひ「今」を知るために見たいんですが、日本に帰るまではお預けになりそうです。

 

 

被災地から何百キロも離れた大阪で体験した「震災」。

「今行ったところで、貴重な食料を減らしてしまうだけだ」

と思いながら、インターネットにかじりつき情報を探していました。

余震が続く被災地に行き何かをする勇気は無かったし、

自分が行って何が出来るかなんて検討もつきませんでした。

むしろ、いつか地震が起きるであろうといわれる

大きな活断層の真上で暮らしている事に怯えていました。

 

すぐに被災地にかけつけた人、そうでない人。

被害にあった家を漁って盗難を繰り返す人、

瓦礫の下で助けを待つ人を必死で探す人。

原発を非難する人、支援する人。

内定を蹴って現地のボランティアを続けている人、

ボランティアを「偽善」だと思う人、

善良な団体を装って搾取する人。

大量買いする人、買ったものを現地に送りたいんだと言う人。

 

関西に居た私が見た「振る舞い」はほんの一部ではありますが、

後々、万が一「そう」なってしまった時に、自分がどう振舞い、

どう生きるかについては、色々なケースを見て、学ぶことがありました。

自分が被災したとき、避難所でどのように過ごすのだろうか。

飢えや寒さと戦い、家族や友人の安否を気遣いながら、

人に思いやりを持つことができるだろうか。

そんな事を考えていたら4年が過ぎていました。

 

答えが無いことをいつまでも書いているので、

こんなに長々書いたところで結論はありません。(すみません。)

この震災はまだ終わっていないので、答えは未だ無いのだと思いますが・・・。

 

こんなにハッキリ3月11日の事を覚えている年は、

今まで24年生きてきてあの日だけだったし、きっとこの先も一生無いでしょう。

 

日本時間14時46分は、あの日犠牲になられた方に黙祷を捧げると共に、

3.11を機に人生が変わった方がたに平穏な日々が訪れることを切に願います。